トップ特集・レポート>インタビュー・辰巳芳子さん
食はいのちを養うもの。では、いのちとは何か、いのちの目指すところはどこかを問うことで、食はさらに本物になっていく。
誰にもつくりやすく、人生に必要なすべてを兼ね備えたスープを教えながら、食の未来について深く洞察する辰巳芳子さんに食の心を聴く。

 辰巳先生の「食に就いて」というサマリーの冒頭に「『いのち』の目指すところは『ヒト』が『人になること』『なろうとすること』」と書いてあります。

辰巳  「いのち」というものは、いくら言葉にしようと努力しても、説明することは不可能かもしれません。だから、生涯のテーマ、命題です。別に急ぐ必要はありませんが、良く生きている方の姿は、「いのち」の表れで、「いのち」への答えです。それをあだやおろそかに見てはいけません。

私は、悪いことをする人の生き方も見る必要があると思います。見苦しい方のことも、やはり「いのち」です。両方を受け容いれる方がいいのです。

 イエス・キリストが十字架にかけられた時のお話を、先生はしていらっしゃいますね。

辰巳 キリストの両端に二人の犯罪者がおり、片方の方はキリストの揚げ足を取って、「あなたは、散々困った人を助けたんだから、今はあなた自身があなたを助ける時じゃないか」と言ってキリストを笑いました。もう一人は、「この方は、何も悪いことをしないのに、私たちのために十字架に付けられた」と言って、片方の人を戒めました。その時、キリストは「今日、あなたは、私とともに楽園にある」と言って、その人を連れて天国に行かれたのです。

私は時々、その二人の差を考えます。本当の意味でキリストを評価したその人は、実は生物としての「ヒト」ではなく、一瞬にして魂をも含む人間としての「人」になりました。宮沢賢治が言う、塔を一瞬にして建てたのです。これは「いのち」の目指すところです。実は私たちも、日々気がつかないうちに塔を建てるべく生きています。

辰巳 サマリーの最初に、「神佛の慈悲から、目をそらさぬこと」と書きました。「目をそらさない」というのは、例えば、太陽の恩恵に顔を背ける人はいませんが、集中できる方とできない方の差はあります。いつでも太陽の光を受けようとする方は、神佛の恵みを受けやすい状況にいると思います。そのようにいつも、ちょっとした間にも、神佛の慈しみを感じたいと思います。

それには、そういう自分でありたいと神佛に訴えなければいけません。そうしていると、じっと見ていられる人になれます。人に会いながらでも、神佛の慈悲を意識できると思います。それは、ある種の訓練でもあります。

次に、「愛し愛されることを、存在の核にすえること」がよく分かってくると、愛さずにはいられなくなります。

そして、「宇宙・地球 即ち風土と一つになり その一環として生きること」です。このサマリーを書いた頃は、宇宙と一つになることをそんなに実行していませんでしたが、最近になって、宇宙に自分を位置付けるようになりました。実行すると、失うもの、失うことは何もないことが自然に分かってきます。

私は、佐藤忠良や舟越保武という彫刻家の言葉が大好きです。佐藤さんは「触覚感、さわるということから本当の文化が育つと自分は思う」と言って、相当お年を召してからも彫刻をやりとげ、「何を目指しているかというと、自分は『いのち』ということが分かりたくてずっとさわってきた」と語っています。お二人とも長生きでした。

「いのちとは何か」「生きるとは何か」ということは、答えが出るまで大切に持ち運んで、途中で諦めないことです。

 そこに、食べることの意味が入ってくるのですね。

辰巳 粘り強く待つ力は、その人がいかに食べてきたかということが、相当影響してくると思っています。なぜかと言うと、いのちを守るはずのものを食べた時は、人間は、自分のいのちに対する手応えを感じるものです。

1回目に、けんちん汁の話をしましたが、あれは体を温めるための食べ物で、足先までずっと温かくなる。たくさん食べる子がお代わりしたら、その子の顔には、じわっと汗が噴いてきます。それが手応えです。自分のいのちに対する手応えです。薄紙のように人の中に重ねられていくものです。その手応えが昇華して、信じる力、信じられる人になってゆく、と考えています。

信じられる場から本当の希望が育つ。信じられない方は、希望を持てません。信じる、希望を抱けるというその場から、揺るぎない愛が育つと思います。信じること、希望すること、愛することを分けては考えられませんが、私は信じることから始まると考えています。

こういう時代になって、私は有機・無農薬のものを探していますが、その場に行って見られるところは、そうたくさんありません。遠くから、その人が言うことを信じるよりほか仕方ありません。そこに信じられる方がいてくれないと、私たちはその野菜や穀物を食べることはできません。

そういう意味で、自然農法を行っている方たちは、とてもありがたい存在です。人間の信・望・愛を支えるものを作ってくださっているので、感謝しています。

 先生は「『生活』は生きることの足場だ」とおっしゃっています。

自己救済術案「ぬちぐすい」。沖縄の起死回生用スープ。 丼にしっかりひとつかみのかつお節、おろししょうが小さじ1〜2、薄口しょうゆかけまわし 熱湯を注ぎかけ、ふたをきせ、1分。
上澄みだけ飲む。総身にしみる
辰巳 日々の暮らしの集積が「生活」と言っていい。その生活の基盤を支えるのが、家事だと思う。家事なくして、生活活動を無事に展開させていくことはできません。

「料理することとは」、食事に対する知識、作り方に対する経験の統計、そういうものをすべて含んだ上で、その根にあるものと自分の五感を一気にひとつにして仕事することです。こういう仕事は、料理だけ、食べることだけではないかと思うのです。そしてそのことが、いかに「ヒト」を「人」にしていくかということに気付いております。

しかも、料理というのは、鍋の中で刻々と変化するから、瞬間的な判断が必要です。だから本当を申しますと、五感が育つんです。五感を育てながら、自分の経験を変遷していくことができる。これはありがたいことではないでしょうか。

 「『手抜き』や『簡単』の先には、何の実りもない」ともおっしゃっていますが、合理化を否定しない。展開料理を提案しています。

辰巳 出汁(だし)を毎回ひく。わかめをあせりつつ毎回角切りにする。お腹をすかせた子をなだめつつ、合わせ酢を作る。こういう台所仕事の繰り返しがこれが果てしなく続くのか?という気持にさせます。

私は、出汁は曜日を決めて1週間分ひき冷蔵または冷凍にし、この出汁を用いて二杯酢、三杯酢、八方つゆにするなど、出汁やスープ、ソースなどに展開させています。そうすることで毎日の台所仕事にゆとりと広がりをもたらすことができます。

これは、手抜きではありません。合理化の本質は、必要欠くべからざるものは何かということを、物の本質に即して考え尽くすことなんです。そうやって物の本質に自分を従わせていくと、自我が抜けていくと思う。そうすれば、人様にお目にかかる時も、たぶん他の方よりも素早く、相手の方の本質にぴったりと向き合った対応ができるようになります。

神の心に添うという姿勢も、そういうところからついてくる。目に見えるものにちゃんと向かっていかれなくて、神に向かうことはできません。物そのものの中に神がいらっしゃる。物は神の現れと言っていいんですから、それがなされないと、信仰といっても難しいのではないかと思います。

 本日は、本質的なお話を伺うことができ、誠にありがとうございました。(おわり 2013年5月2日)

http://tennoshizuku.com/
映画「天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ”」
辰巳芳子さんの作る料理と言葉を通じて描くドキュメンタリー作品。「食べること」、「生きること」そして「大切な人を想いやること」を、改めて問いかけます。

文/原章 撮影/山下恒徳
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