有機農業者にとって「売り先確保」は、営農存続につながる最大の課題だと言われています。和歌山県内で活動する有機農業者グループ「紀州大地の会」の代表世話人園井信雅さんは、産消提携の仲介や首都圏小売店への直接営業などで、メンバーが生産した農産物の完売をめざしています。第5回目は、食の安全を脅かす昨今の不透明な流通事情の中で、「流通業者は、産地からの正確な情報と生産者の心を添えて消費者に食の選択肢を提供するコーディネーター」と熱意を持って取り組む園井さんを紹介します。
グループの代表世話人として売り先確保の責任を感じていた園井さんは、大消費圏での開拓を狙って、情報誌に載っている東京近郊の自然食品店宛に直筆で手紙を書いた。30軒のうち返事があったのはわずか3軒。その中でチェーン展開する2社に目標を絞った。
師走商戦まっただ中の12月10日、東京駅に降り立った園井さんは、その足でA社「自由が丘店」(本部・渋谷区)とB社本部(本部・豊島区)を訪ねた。腕の中には、風呂敷で包んだ有機ミカンがあった。
あらかじめアポイントメントを取っていたものの、飛び込み営業に近かった。それでも、A社では営業部長が、B社では社長が直々に会ってくれた。両者とも即決、商談は瞬く間に成立した。「ミカンの味が良かったことと、有機JAS認証ミカンの希少価値を評価しました」と両関係者は言う。和歌山の有機ミカンが首都圏に第1歩を印した日だった。
園井さんはサラリーマン時代のことを思い出していた。月売り上げ1億円の仕事をこなしていた有能な営業マン。毎月、和歌山と東京を往復していた。定年退職後の進路も約束されていたが、偶然手にした琉球大学比嘉照夫教授(現名誉教授)の著書『地球を救う大変革』によって、第2の人生設計は大きく変わった。
「もともと農業は素人ですが、“農が身近にある暮らし”を求めていました」 消費者が求めるからといって季節感のない野菜が出回り、規格外を排除する流通のあり方に疑問を持ち続けていた。日本の食文化に危機意識を高めていたときにEMのことを知った園井さんは、「EM技術の多様性は、農業をはじめ環境問題など地域の様々な課題に対応できる」と呼びかけ、平成6年10月「和歌山EM活用研究会」を設立。1年後には、農業分野(水稲、畑作、果樹)を主力とする「紀州大地の会」を発足し、有機農業の研究と普及に取り組んだ。
この時点で、園井さんは会社を退職。定年まで年月を残していたが、決断の背中を押したのは若い頃の苦い経験だった。大学時代に住み込みでアルバイトをしていた豆腐・油揚げ工場で、毎食出された豆腐と油揚には、腐らないように「魔法の薬」が使われていた。後に遺伝子に悪影響を及ぼす最も危険な防腐剤「AF2」ということが分かった。「知らずとはいえ、多くの人に食べさせた申し訳なさもさることながら、住み込みの自分たちが一番多くたべていたことが怖かったです」。若い日の苛立ちと憤りは、食の安全性へのこだわりを強く心に残し、人生の第2ステージの方向性を決定づけた。
「小さな記事でしたが、1回目の勉強会に85人も集まったので驚きました」 手応えを感じた。ほとんどは生ごみリサイクルなど環境に関心のある人だったが、勉強会を重ねるごとに、稲作農家を中心に有機農業志向の農家が増えていった。園井さんは、(財)自然農法国際研究開発センター京都試験場の指導を受けながら、農家のお世話をした。勉強会も毎月開催した。
ところが、「有機米はつくれば売れる」と思いこんでいる様子の生産者を見て園井さんは焦った。自分が売る羽目になるとは思いもしなかったが、「ものが出来上がったら、それは生業で経済活動です。生産者が心を込めた米の価格を落とすことなく、何としても売り切らなければならない」。これが、販路開拓に奔走した始まりだった。
「市民活動など初めての経験でしたから、とにかく、ありとあらゆるツテを頼って手当たり次第に頼みに行きました」。地元タウン誌(17万部発行)の編集長も訪ね、日本の食料自給率や農薬・化学肥料の問題、有機農業への挑戦の話など、熱っぽく語った。
新聞が出て2日間は電話が鳴りっぱなしだった。「有機米がほしい」という問い合わせが30軒くらいあった。新聞の反響もあって、300俵を何とか完売した。このことをきっかけに、有機米を求める消費者とそれに応える生産者は増えていき、両者が年間契約で結ばれる「産消提携」の仕組みができていった。
しかし、長期保管ができる米と違って、ミカンは時間との勝負。商機を逸したら終わりだ。松坂さんたち3人のミカン農家はEMに出会ったことが有機栽培に挑戦したきっかけだったが、4000戸のミカン農家が、虫がわこうとわくまいと、普及所の指導した基準で農薬をまいていた。そのこと自体に疑問を持ち、怖ろしいと思っていた3人だったが、農薬も除草剤も使わないことは、地域での孤立を意味した。有機栽培の難しさと独自の販路開拓のリスクは大きい。しかも、3農家とも親子・夫婦間で意見の相違があることを園井さんは知っていた。その責任を、園井さんは自らに課していた。それだけに、東京での商談成立の意味はあまりにも大きかった。
園井さんは、改まった姿勢で、「A社とB社のお陰やと今も思っています」と言う。特に、B社の社長は、すぐさま、営業本部商品企画統括責任者を和歌山に行かせた。年明け早々のことだった。「どんな場所で、どんな生産者によってつくられているのか。顔の見える関係を築きたいと思って来ました」と挨拶した同統括責任者は、実は社長の娘さんだった。その姿勢に、ミカン農家の3人も園井さんも、心を打たれた。
1か月後、こんどは3戸の生産者夫婦が自分たちのミカンの売り先を視察したいということになり、上京した。B社店頭に生産者名入りの箱が積まれ、次々と売られていく光景を目の当たりにした。そして、社長からは、“有機の将来”に対する熱い期待を聞いた。
「自分たちの作品が世の中に評価された」 この喜びが生産者家族の気持ちを1つにした。自信を持った3戸の生産者は、全耕地有機転換へと一気に加速していった。松坂さん150a、古田さん250a、宮井さん150aの全面積だが、収量は慣行栽培の約2~3割減少した。それでも、「暑いさなか合羽を着て、マスクをして農薬散布しなくて済む快感さ、家族やお客さんが安心して食べられる喜びの方が大きい」と3人は口を揃える。
園井さんはうれしかったが、内心ハラハラした。完売の責任を一層強く感じたときでもあった。 「有機栽培で怖いのは、売れ残ったものを一般の市場に持って行ったら、値がガタガタに下がってしまうこと。廃棄処分にしなければいけないこともある。だから何があっても売り切らなくてはいけないんです」
そういうこともあり、その後3年間は東京の得意先の納入価格を変えなかった。全国的にミカンが不作の年は、慣行農法の方が高値になったこともあった。しかし園井さんは、「3年間を通して考えたら収益はそれほど変わらない。値上げ交渉をすれば、値下げ交渉にも応じなければならなくなる。よほどの理由があるとき以外は値上げをしない覚悟でした」と述懐する。得意先も、掛け値をしない園井さんの姿勢を評価し、信頼関係を深めていった。
3戸のミカン生産者は、それぞれの顧客も持っているが、管理はすべて園井さんに任せている。その理由について園井さんはこう語る。 「早生が強い農家、最盛期の量が多い農家、ピークを過ぎても収穫量がある農家もある。これをまんべんなく、得意先からの注文に応じて欠品なく応えていこうとすると、どこかで調整しないといけない。また、同じ値段だったら、こちらの農家の方がいいとなって1戸の農家に集中すると、グループが成り立たなくなる。お得意先の要望もスタイルもよく分かった上で、責任を果たせるようにしておきたいからです」
信頼されて注文がくる喜びは、収益だけではない付加価値につながっている。昨年こんなことがあった。突然、大手量販店のC社から2日間に1000ケースの注文が入った。たまたま、在庫の豊富な古田さんが受けてくれたが、12000袋に小分けしなければならなかった。納期は待ったなし。父母、夫婦、子どもたち、まさに一家総出の作業になった。保育園年長の次男がその様子を日記に書いていた。 「かえってきたら、みかん600ケースのちゅうもんがはいっていた。みかんがいそがしい」。次の日、「また、ついかできちゃった。まだまだ、いそがしい」 「そのことを嫁が喜んでいました。家族全員で仕事に集中したことが、ものすごく大事なことだと分かったって言うんです」と古田さんも微笑む。 園井さんは、こうした農家の気持ちを大切にしている。
園井さんから、何を、どこに、どのくらいという注文が入ると、生産者は直接発送する。「倉庫を借りられないから、苦し紛れの方法」と園井さんは言うが、倉庫に入れる手間暇と費用が節約できる。店舗が20あるチェーン店だったら、20店舗に送ることもあるが、運賃は得意先持ち。 「運賃を別途請求できることは、農家にとってものすごく魅力なんです」と古田さん。ストックヤードの小さい店舗にとっては、それでも有利だから、お互いにいい関係が築きあげられている。
「紀州大地の会」が発足して今年で14年。有機JAS認証21戸、特別栽培・エコ栽培など70~80軒ほどが研修とEM活用を中心に関わっている。有機米生産者は15戸12haに増え、160軒の消費者と年間契約する「産消提携」を築くまでになった。出荷時は生産者が集まって、それぞれの出荷作業に取り組んでいるが、その場が水稲部会の交流の良い機会にもなっている。80歳を越える農家も、「有機栽培は楽しく、働く意欲が湧いてきます」と元気だ。
園井さんは、これまでの経験から和歌山では、「米は産消提携」「大量生産のミカンなどの果物は大量消費圏へ向けて販路を展開」「野菜は地産地消」がいいと言う。その上で、「地産地消タイプは、生産者と消費者の関係をもっと濃密にしていく必要がある。消費者が求めているものと生産者がつくれるものとの情報をマニュアル化し、需要と供給バランスを計画的に調整していけるような仕組みができるといい。そういうことが得意な人が出てくるとおもしろいと思っています」と話す。
現在の目標は、「都市近郊型有機農業グループ集団」をつくること。構想では、生産者と消費者の区別なく“農が身近にある暮らし”に触れられるモデル農場と直売所を計画。和歌山市内の家庭菜園希望者を全面的に応援することも考えている。これが、第2の人生を決めたときからの夢だが、「今までの経験をいかせば必ずできる」と自信をのぞかせる。
園井さんは、「紀州大地の会」以外のグループと連携していくことも視野に入れている。「有機農家グループは、それぞれ歩んできた歴史ややり方が少しずつ違うので、その交流は形式的になりがちですが、有機農業推進法の成立、県懇話会の設立などがきっかけで、紀ノ川市など周辺市町村との有機農業に関する交流も多くなり、中身の濃いおつき合いができるようになりました。以前は他のグループの資材を使うことに抵抗があると思っていましたが、EMボカシ肥料を使うグループが増えてきて、連携の機会が広がりました」。
そんな花田さんにアドバイスを送るのは水稲部会メンバーで、近所に住む伯父の藤井高さんだ。「藤井さんは、有機農業13年間の実績があるベテランです。豊富な経験と技術を受け継いで若い人が育っていく、理想的な関係です」と園井さん。花田さんのような若い就農者のすそ野を広げるためにも、「都市近郊型有機農業グループ集団」づくりを急いでいる。
「紀州大地の会」のメンバーには、元JA関係者や公務員、教職員も多い。かつては、会のNPO法人化も考えたと言うが、商売に欠かせない“商機”の判断や欠損が生じた際の責任の所在を明らかにするためにも自分が代表となって「市民企業」を名乗った。良心的な商いをめざす園井さん。「利益の追求ではなく、“理念の具体化”を第1義とする商いが『市民企業』のとりあえずの定義です」と言って、「「自分は代表であり、事務局長であり、雑用係り。こんなことで利益が上がるなんて簡単には思っていませんよ。年金生活だからやれるんです」と笑う。
「紀州大地の会」では、目下、首都圏のA社、B社のチェーン店46店舗を中核に、後に和歌山県が仲介してくれた大手量販店チェーン、百貨店2社などを主要取引先としている。 B社の営業本部商品企画統括責任者は、「取り引きが始まってから5年、今ではミカンだけでなく梅や雑柑橘類も扱っています。この間、ミカンの味が酸っぱいなどのお客さん苦情にも、その都度誠意を持って素早く対応してくれるので安心しています。信頼が継続の要因ですね。園井さんは、生産と販売の現場を正しい情報でつないでくれる“通訳”です」と評価する。
食の不安で満ちあふれている世界だが、園井さんには「流通」という手段を持って、正しい食の情報を地域から発信し続けてほしい。
園井信雅(そのい・のぶまさ) 1938年三重県伊賀市生まれ。有機農業者グループ「紀州大地の会」及び「和歌山EM活用研究会」代表世話人。NPOわかやま環境ネットワーク理事、NPO日本自然環境学習センター理事などを務める。また、近年、和歌山再資源化事業協同組合と連携し、事業系生ごみの堆肥化を実施。企業・農業者・消費者を結んだ地域内資源循環に尽力している。
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