農水省は「有機農業を環境保全型農業の1つ」と認識していたが、金子さんは「有機農業は、ただ農薬や化学肥料を減らせばできるものではない。環境保全型農業と有機農業は並立してとらえるべきだ」と訴えた。机上の論議では本質が見えない。現場に足を運んで、実態を見てほしいと提案したのだ。
「これが有機農業なのか」 審議会の分科会長・生源寺眞一東大教授をはじめ、多くの人が驚きの声を上げた。 「暮らしの全体の設計思想と結びついている」「生物多様性に優れた素晴らしい農場だ」「哲学を感じる」などの感想も聞かれた。「環境保全型農業の延長線上にある有機農業」との間違った認識を改めざるを得なかった。 同年4月、「有機農業は有機農業として推進する」と、基本方針が打ち出された。「有機農業第Ⅱ世紀」の幕開けとなった。
「第Ⅰ世紀」は、日本有機農業研究会(以降、日有研)が産声をあげた1971年からこれまでの歩みと位置付けられる。71年は工業の発展とともに様々な公害が社会問題化した年でもある。金子さんは、日有研発足と同時に入会した。当時、若干23歳の金子さんが有機農業を志した原点とは何か…。
農業高校に進学してからは本格的に酪農を勉強したが、牛の弱体化に疑問を持った。牛が奇形で生まれたり、カゼを引きやすくなったからだ。大学に進んでから、その原因がガス類や輸入飼料に含まれている残留農薬にあるらしいことを掴んだ。“本来の農畜農業を取り戻さねば”との思いが高じていった。
●恩師たちの言葉糧に
大学は、68年に農水省が開校した農業者大学校の難関をパスして、晴れて第1期生として入学した。そこで、多くの講師の影響を受けた。 「本なんか読んじゃいかん。自分の実践の中から学び、自分の言葉でしゃべりなさい。一楽さんにそう言われました。強烈でした」 農協系シンクタンクの協同組合経営研究所の理事長で、「有機農業」の生みの親の一楽照雄氏のことだ。
卒業前年の70年、減反政策が始まった。金子さんの気持ちは固まった。 「農家はやる気をなくし、いずれ安い農作物が外国から押し寄せてくる。日本の農業は、安全で美味しく栄養価の高い作物をつくるしか、生き残る道はない。有機農業に懸けよう。そう直感しました」 家業の酪農を縮小し、自給していた米や野菜を無農薬・無化学肥料で増やし、直接消費者に届けようと思った。将来は、集落単位で自給することを心に描いた。
しかし、戦後の近代農業を象徴した農薬・化学肥料万能の世の中で、堆肥づくりに手間暇をかける有機農業をやっていくには様々な障害があった。「あんなことをやって食ってゆけるんかい」。地元からは変わり者扱いされ、「おまえが農薬をまかないから、病気や虫が来る」と嫌みも言われた。
実際、そのころの稲は貧弱で、野菜も良い物は穫れなかった。しかし、日有研の学者や医師らの助言が金子青年を支えた。一楽氏をはじめ、土壌微生物学の権威・足立仁氏、農村医学の若月俊一氏らは、心からの恩師である。
ところが、その時々の野菜を市場価格と比較したり、草取りを手伝う分会費を安くしてほしいと言う人が出始めた。 「どうして、その日その日で損得を考えてしまうのか。有機農業は10年くらいの長い目でみてもらわねば」――金子さんは悩んだ。結局、わずか2年で会費制の試みは挫折した。収入がゼロになった時もあった。 「それでも、ほとんどの食べ物を自給していたので、不安はありませんでした。“農業は強いな”と改めて実感しました」
●「10年後に勝てる人たち」
失敗を踏まえ、消費者自身が決める金額で農産物を届ける「お礼制農場」として再開した。門戸も東京の消費者まで広げた。お礼の額や支払い方法は十人十色。届けた小麦でクッキーを焼いてくれたり、手製のエプロンをもらったりした。純粋に良いものを消費者に届けるという営みが、精神的余裕も生み出した。 「食べ物は命や健康を支える物。商品のようにしたくなかったんです」と振り返る。その思いは今も同じだ。特定の地域に限らず、1対1の関係を築けたことも成功の秘訣だ。
「有機農業で食べていける」と、やっと目処がつくまでに8年かかった。日有研で知り合ったフリーアナウンサー(当時)の友子さんと結婚したのもこの頃だった。披露宴には、小説『複合汚染』の著者・有吉佐和子氏や、婦人参政権運動に生涯を貫いた市川房枝氏らが駆けつけた。有吉氏が金子さんの、市川氏が友子さんの主賓だ。有吉氏は日有研のメンバーについて、「変人の集まりだが、10年後に勝てる人たち」と評し、金子さんの野菜を毎月のように取り寄せていた。
金子さん夫妻は、披露宴の記念写真を今も大事にしている。有吉氏や市川氏をはじめとする恩師の多くが、すでに他界している。「有機農業推進法」が施行されたことを真っ先に報告したい人たちだった。
金子さん夫妻は、文字通り二人三脚で取り組んでいる。消費者との提携とともに力を入れてきたのが、地場産業との連携だ。地元産の有機農産物を加工・商品化する地元企業とそれを買い支える消費者を繋いで、「地域内循環の町づくり」をめざす。81年、有機米を使った酒づくりから始まった。その様子を商工会の仲間が見て、乾麺、しょうゆ、豆腐、ソーセージなどと広がり、地域ブランドとして定着していった。 「何よりありがたいのは、再生産(必要経費を引いて、次年度の作付け経費が捻出できる状態のこと)のきく値段で農作物を買ってくれるということ。そうすると農家は来年も頑張るぞという気持ちになります」と金子さん。
「手間暇をかけ、原料のしっかりした豆腐を消費者は求めているんです」と渡邊さん。人口2万弱の小川町に隣接するときがわ町の豆腐店だが、土日には1日1000人ものお客が訪れる。世の中では、生産者と加工業者、流通業者の間で1円のせめぎ合いが見られるが、この地域では、消費者と生産者と加工業者が互いを支え合う「運命共同体」の関係が構築されている。 渡邊さんに納入している有機大豆の生産者も増え、現在の面積はおよそ15ヘクタール。その土地を3区画に分け、2年水稲、1年大豆、麦と輪作している。
「土づくりは、山の自然から学びました。山は落ち葉を小動物や微生物が分解し、それを繰り返し100~200年かけて1cmの腐葉土をつくりますが、有機農業では、人間の手を加えて10~20年に早めるんです」 落ち葉、植木クズ、野草、オガクズ、モミガラ、生ごみなど積み込んでは切り返し、堆肥をつくり畑に鋤込む。同じ場所に同じ種類、同じ科の野菜をつくると連作障害を起こしやすい。毎回植える場所を替える輪作も大切な手法だ。 「自然の循環の中に上手に人間が関わっていくのが、有機農業です」
金子さんが有機農業を始めた時、「あんなことやって、食ってゆけるんかい」と心配していた16歳年上の安藤さんは、30年間金子さんの農作物の出来具合を見続けていた。「地力がついてくると、うちより穫れるようになったので、これはなんだろうと不思議でした。品質も素直に認めざるを得ず、『金子さんのやり方で一緒にやらせてくれないか』とお願いしたんです」と述懐する。
金子さんは続けた。「信じられないと思いますが、安藤さんは、自らが借りている畑を堆肥場に提供し、私たちの集落すべての田畑に必要な堆肥をつくってくれるんです。それも無償ですよ」。現在、町内には土地改良が済んで本格的に農業ができる集落が13か所ある。そのうち金子さんの住む集落を含めて4か所は、すでに有機農業に取り組んでいる。 「町内全集落の有機農業転換が夢です」と、金子さと安藤さんは目を輝かせる。
●37カ国100人以上の研修生
95年には小川町有機農業生産グループも結成され、現在、有機農家は25戸(小川町全体耕作面積の3.5%)。このうち20戸は町外から移り住んだ人たちだ。 「農業の後継者をつくろうと、30年前から研修生を受け入れました。その卒業生がまた研修生を取り、ここまで広がったのです」 受け入れた研修生は海外37か国を含め100人以上。そのうち9割は非農家出身で、年齢も10代後半から50代後半までと幅広い。
目下金子さん夫妻のところには、7人が住み込んでいるが、ここ5~6年研修希望者が増加傾向にある。 「自然とともに人間らしい生き方をしたいと思って来るのか。農業の自決労働(自分で段取りを立てて作業を行い、それにすべての責任を負うこと)のおもしろさに気づく人が増えたのか、農業は確実に新しい時代を迎えていると思います」と、金子さんは見ている。
先日発表された農水省の有機農業モデルタウン45か所の1つに、「小川町有機農業推進協議会」が採択された。「小川町全体を有機農業の町に」という金子さんの夢は、一歩一歩現実化している。
金子さんは、自らモデルづくりをしながら、日本の将来を見ている。冒頭で紹介した「食料・農業・農村政策審議会生産分科会」の委員をはじめ、農水省が事務局の「全国有機農業推進委員会」の会長代理、有機農業関連の民間団体として結成された「NPO法人全国有機農業推進協議会」の理事長などを務めている。まさに我が国の有機農家の代表者だ。
「この国には根(農業)がなく、花(工業)ばかりの切り花国家である」――金子さんの持論だ。日本が今日のように発展できたエネルギーの源は農業にある。その源泉が枯れてしまう前に、しっかりとした根をはわせ、自然と共生した命の営みが大切にされる大地にしていかなければならない。
小川町で完成しつつある集落内循環有機農業を見守りたい。それは国がこれまで進めてきた大規模農業の対岸にあった、小規模農業を活かす取り組みと言えるからだ。この営みが生産者と消費者、流通業者、加工業者らをイキイキと輝かせ、地域興しへと繋がっていくことだろう。
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