春作業をしていると、就農当初の20年前を思い出します。
私と夫はアラスカのデナリ国立公園で出会いました。彼はその直後から冬の半年間だけの3冬をネイティブの村で過ごしました。森に住む極北の先住民族の冬の生活技術を学び、狩猟や犬ぞりを実践し身につけるためでした。本当は現地のネイティブの娘とあわよくば結婚し、自分もネイティブになるつもりだったのです。しかし、現地に若い娘がいなかったこともあり、2年後に私たちは結婚しました。新婚旅行を兼ねた夫の3回目のネイティブの村滞在中に私が妊娠。つわりがひどく、私は夫より1か月早く帰国しました。二人でアラスカに暮らすことを真剣に検討していましたが、ネイティブ社会は魅力的である反面、非常に危険でもあり家族で暮らすことは難しいと判断して断念しました。夫はアラスカに通っている時から東京都内の造園会社の職人さんとのご縁で、5年ほど植木職人として働きました。私は結婚までは写真家でしたがしばらくは子育てのため専業主婦でした。この間に自分たちの生活のあり方やどんな場所でどんな仕事をして、どう生きていこうかということをゼロから考えていきました。
休日はほとんどが移住先を探してのロケハンでした。山菜採りをしながら、キャンプをしながら、本州のさまざまなところを見て回り、自分たちの生きていきたい場所を検討しました。そして、本州には私たちの住みたい条件の場所はないとの結論に達し、北海道でここと思える場所がなければ海外にしようと話していました。もとをただせば、最初から農業と決めていたわけではなく、まずは自然豊かなところで子供たちがのびのびと過ごせる場所、狩猟採集と犬ぞりができる広い自然林が背後にあることを必須条件に、職業はできることをやっていこうという考えでした。北海道の3つの候補地の中から幌加内町朱鞠内を唯一住みたい場所と決断し、農業研修のため同町政和に、1995年上の子どもが3歳になった年に移住しました。
頼みの綱は"EM"
当時、テレビでは盛んにEMの使い方や生ごみ発酵堆肥のつくり方などの特集を放映していました。それらの番組をいくつか観たことはありますが、都会の一戸建て借家の猫の額ほどの庭先家庭菜園しかやっていなかった私にはよく分からなかったです。でも、根拠はあいまいでしたがEMを使いこなせれば無農薬で野菜がつくれると確信めいたものを抱いていました。ですから、夫が"農業を"と言い出した時もそれほど抵抗感はありませんでした。私自身、無農薬の野菜をおなか一杯子どもたちに食べさせるには自分でつくるのがいいのではないかと思っていた矢先だったので、すんなり"よし、農業しよう!"と思えたのでした。
夫も私も農業経験はゼロ。農業ってどういう農業があって、野菜はどうつくられていて、自分は何ができるのか、全然わかっていませんでしたから無農薬栽培や有機栽培がどういうもので、どうやったらできるのか、農業全体の中でそういった農業がどんな位置にあるのかすら無知でした。とにかく、無農薬で野菜をつくって自分たちが食べるんだ、という強い意志がどんどん育っていきました。
1997年、自分たちのめざす農業のために朱鞠内に転居して現在に至っています。慣行栽培の農業研修を2年間受けていたとはいえ、有機農業経験ゼロの私たちの頼みの綱はEMでした。私たちの朱鞠内での新規就農は、「有機栽培でEMをどうやって効かせられるのか」を課題に、農業だけで生活を成り立たせるための試行錯誤だったと思います。「EMは効く」、「いや効くのかどうなのか、わからん」。就農から2、3年は両方の声が周りから聞こえてきました。効かないという声のほうが多かったかもしれません。また、「使ってみたけどな〜、もう今は使ってないよ」という地元の農家さんもいました。私たちは最初の1年目にトウモロコシにだけ特に手をかけて、ボカシも効かせてつくってみたら、それだけが収穫できた、という経験から「EMはやりようだ」ということを実感しました。家庭菜園規模だからできる効果をそれなりの面積でどうやったら出せるのか。その手法を考え、実践することに年数が必要でした。ここは気温が低く、EMの発酵に時間がかかるので、そこをどのようにしたらよいのかは、自分たちで工夫するしかなかったですね。
今は10q先の黒毛和牛農家さんから毎年全量引き受けることになって、安定して堆肥を確保できていますが、そこにたどり着くまで本当に頭を悩ませてきました。
土をつくるという課題
「肥料もやらんでこの畑で野菜をつくろうとしても、3年経っても何にもできんぞ。この畑はひどく痩せた土地なんだ」と話してくれた元地主さんに、「この土を何でもできる土にできたら、それこそ財産ですから」と夫は当時言いました。今思えば、元地主さんは何十年もこの畑で苦労してきた方ですから、その痩せた土の苦労を解ったうえでアドバイスをしてくれたのだと思いますが、私たちは"EMさえうまく使えたらきっと何でもできる土になる"と信じていました。そして実践してきました。3年経っても確かに売れるような商品は何もできませんでした。でも4年目くらいから少しずつよくなり、5年目には販売先を探せるようになりました。
朱鞠内地方は気候条件が厳しく、日本で最も耕作期間が短い場所です。その上、私たちが選んだ畑は特に痩せ土だったことで草さえもろくに育たない土でした。元々がそんな土でしたからなおさらだったのですが、農薬も化学肥料も全く使わずに、農業という職業ベースの生産ができる土にするのに私たちは5年かかりました。でも、この期間は短くすることができます。初心者で、有機栽培へ移行させるノウハウも機械も、基本的な農業技術さえも十分でなかった私たちだから5年もかかってしまったということなのです。
現在、この畑の作物は数十種類で、販売先も首都圏で100店舗以上を展開する高級食材店を中心に、こだわりの品を取り揃える小売店からも強いご要望をいただいていますが、人手不足もあって需要に応えきれない状況です。
農業のスペシャリストの多くの方たちから、「朱鞠内での新規就農と有機農業は不可能」と言われてきました。そんな私たちは今年で20年目を迎えました。スタートから5年もまともに収入がなければ、生き残っているわけがありません。次回は、この5年間をどう乗り越えてきたかを書こうと思います。
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