逃げられない
循環できない
「自分の原乳は、いったいどのくらいのヨウ素やセシウムが出ているのか?本当に出荷できないのか」――瀧澤さんは知りたかった。どうにもできずにいた時に知り合いの大阪の会社から、測定費用の支援の話が来た。測ってみると、1回目の4月6日には、やはりヨウ素もセシウムも出ていた。2回目、4月26日には出なかった。「やらないことにはわからない」ということを知り、県にモニタリングをして欲しいと闘った。その後、屋内退避区域から緊急時避難準備区域へと移行したことで、5月中旬に、南相馬市の原乳の放射性物質モニタリングが実施されることになった。その結果、6月10日から原乳の出荷が再開した。3月14日から6月6日までの約3か月間、瀧澤さんは、毎日牛乳を搾っては、それを畑に捨てることを繰り返した。朝夕2回だった搾乳を1回にしたため、牛は衰弱。断腸の思いで14頭の牛を処分せざるをえなかった。
EMを使う
出荷停止が解除になり、ホッとしたのも束の間。肝心要の牧草が放射能で汚染されていたのだ。牧草を作っていた畑の土壌を検査した結果は5000〜6500Bq/kg。当時の牧草の基準値は、ヨウ素で1kg当たり70Bq、セシウムで300Bq。仕方がないので、輸入の牧草を購入した。採算が合わなくなるのは当然だが、食べさせなければ牛は死んでしまう。
実証実験始まる
まず、EMボカシ、EM・1などのEM資材を与えた1頭の牛に、除染した牧草地で刈り取った放射性セシウムを若干含む牧草を与え、どの程度牛乳に影響がでるか計測することとなった。その結果、牛乳の放射線物質は、出荷できる水準であることが分かった。※外部リンク
震災以降、出荷制限や自給飼料の使用禁止等、苦労は絶えなかった瀧澤さんだが、「前向きに頑張らなくてはならないと思う一心で酪農を続けてきた」と言う。この瀧澤さん一家については、NHKニュースウオッチ9の震災ドキュメント2012で「父と子の夢〜原発事故に向き合った1年〜」として放映された。息子の一生くんは、疎開先の郡山市の中学を今年卒業し、地元・南相馬市の高校に入学した。EMを使い始めてから1年が過ぎた2013年6月末、瀧澤さんは比嘉照夫教授と共に南相馬市を訪れ、EMによる放射能汚染対策の経過と可能性について桜井南相馬市長に報告した。その足で瀧澤さん宅を訪れた比嘉教授は、放射能汚染という最大のピンチをEMで切り抜けていこうと奮起するお父さんを称え、父の跡を継ぐという一生くんを大いに勇気づけた。瀧澤さんや羽根田さんが暮らす地区は、現在避難を勧める「特定避難勧奨地点」に指定されている。見えない放射能との闘いはこれからも続くだろうが、それでも牛と共に生きる覚悟を決めた瀧澤さん一家。この春、瀧澤牧場に太陽光パネルがやってきた。家族会議で、もう原発に頼らないで暮らせるように牛舎の屋根に太陽光パネルの設置を決めたのだ。太陽とEMは、瀧澤家の未来を守ってくれるに違いない。(小野田)
■「米をつくる 地域をつくる」EM技術で放射能の影響を限りなく少なくし 地域再生の原動力になっている人々 1.『循環農業再開 自分でつくった米は最高だ』 南相馬市・瀧澤昇司さん (2017年1月31日)
■EM技術を活用した乳牛の放射性物質体外排出促進試験について http://dndi.jp/19-higa/higa_60.php