自分で作った真空管ラジオから、最初に聞こえてきたビートルズの「ロングトールサリー」に鳥肌が立つような感動を覚えたのが、中学生の時。その思いを引きずったまま、高校時代はバンド活動にのめり込み、ミュージシャンを夢見た。夢はいつしか強い決意に変わっていた。そして、上京して念願のバンドマンになった。しかし、朝まで仕事をする昼夜逆転した生活に、いつしか神経性の体調不良を覚えるようになり、その苦しい生活の中で、思い描くは、子供のころの海と山と川の風景だった。その美しい景色の中で、毎日釣りをするような生活をしたいと、強く願った。
この体と神経では、バンドマンはやっていけないと自覚し帰郷。塾の教師になった。ありがたいことに塾の仕事は夜が中心だから、念願の釣り三昧の毎日に恵まれた。狩猟免許も取り、冬にはキジやカモ、イノシシやシカを追っかける毎日、体が疲れたら読書。と、夢のような生活が続いた。しかし、何か物足りなさもあった。遊びだからという後ろめたさもあった。神経性の体調不良も続いた。
子供のころは田園風景に囲まれていた高知市も、都市化、宅地化が進み、その景色とイメージはいつしか、天然色から、モノクロに変わっていた。もっと自然に恵まれた暮らしにあこがれるようになり、住むなら古い日本家屋がいいな、と思うようになった。しかし、強い願いはそれがかなったとしても、予期せぬ、別の問題に遭遇する、という体験値と反省から、強い思いではなく、何となく「そうなったらいいな」と、ふんわり夢見るような、軽い感覚でその思いを持ち続けることにした。
そのほのかな思いを、10年間持ち続けた40歳過ぎ。田舎で一人暮らしをしていた祖母が亡くなった。その祖母が、まだ元気だった父親や叔父たちを差し置いて「この家と畑を、孫の一穂が守れ」と言う、思いもかけぬ遺言を水屋の引き出しに残していた。しかし、こんな田舎でどうやって暮らすのか?仕事はどうする?その答えが見つからないまま、家庭菜園を始めるようになり、きれいで美味しいものができる有機栽培の面白さにのめり込んでいくうち、とうとう、48歳の時に「有機農業で田舎暮らし」という答えが見つかった。
念願の農家になっても、毎日の農作業と、技術のお勉強は楽しくてしょうがないし、楽しいから、努力や苦労という感覚はないし、キツイ肉体労働と滝のように流れる汗は、自我で硬直した神経、閉じた心を開放してくれるし、そのうち体も慣れてきて、夜もぐっすり眠れるようになり「飯は美味いわ、酒も美味いし」で、いつしか神経性の体調不良も影をひそめてしまい、その面白さは、遊んでいるのか、仕事をしているのか分からないくらいだった。
そして、いくら作っても、それ以上に販路が広がる、作れば売れるという状況が続くうち、この幸せはきっと、お客さんに買い支えられているからだと気がついた。では、僕にはそのお客さんに、何の恩返しができるのか?自分が楽しいだけだと、自分さえよければと、自分の世界に閉じこもってしまうと、また、内なる闇の中で、得体の知れない不安が襲ってくるに違いない。そこでふと思い出したのが、小学生のころ、夢中になって読みふけった偉人伝。
「いつかきっと、世のため、人の為に生きよう」という、子供のころの柔らかで、純粋で、楽しくて、心躍るような思いだった。
となれば、僕にできることは「有機農業の推進を軸にした、循環型社会の構築、健全な社会の基盤整備」そのための普及活動なのかな、と思い始めたところで、出版の依頼が舞い込んできたり、有機のがっこう「土佐自然塾」の塾長を仰せつかったり、国の有機農業を推進するための委員に推薦されたり、推進団体の理事になったり、そのうちその団体の代表になったり、あちこちから、講演や技術指導に呼ばれたり、その思いを実現するためのステージに、順を追うような、重なる様な形で恵まれた。人様にも恵まれて、その活動も順調に推移し、同じ思いの仲間も増え、それをつなぐ若い人たちも育ってきた。
自分の人生をトータルに振り返ってみれば、強い思いはかなうけれど、無理をすればその反動もあるし、人様の反発も買う。しかし、ふんわりした願いを持ち続け、自然と共振しながらその流れに身を任せていけば、いつか思いは叶うし、叶わなくてもいいよ、と力が抜けるし、そうなると、よけい叶うし、叶った後も、反動もなければ、人様の反発もない。
そして今では「みんな仲良く、平和で、幸せに暮らしていければいいな」と思っている。
そうなるために、日本の平和と安全のためだけではなく「世界の平和と安全のために、9条が守られ、それが世界の国々の憲法になったらいいな、この思想がグローバルスタンダードになれば楽しいな」と、肩に力を入れず、優しく、しつこく、夢見ることにした。
みんなも、どうよ。
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