会社を休職しフィリピンへ
日本の高度成長時期に育ち、大人になるまで世の中が目まぐるしく変わりました。“便利さばかり追求して一番大切なものを忘れているのでは”と、いつも感じていました。そんな時、青年海外協力隊に参加できるチャンスを得て、会社を1992年から2年半休職しました。
日本がかつて満たされない環境の中で国づくりをしてきたように、私もフィリピンの国づくりに参加しました。現地の職業訓練学校で、電気機器制御技術指導の教材づくりをしました。貧しくても助け合って心豊かに暮らす人々に触れ、たくさんのことを学びました。
また、先進国の企業がフィリピンの自然環境を壊してまで目先の利益を優先させたビジネスをし、挙げ句の果て現地の人はその恩恵にはあずかれないことも知りました。サトウキビ畑の農夫はコーヒーに高価な砂糖は使えません。マングローブを伐採してエビの養殖をつくり、その身は輸出され、頭だけ現地の市場に並んでいました。丸裸になった鉄鉱石採掘跡の山もありました。便利な日本で、当たり前の豊かさの中、何気なく生活していたことを恥じました。
自然の尊さ感じる
そのころ、3交代勤務になっていたので、日中の余暇を利用して自然環境のことを正しく学ぶために、専門学校に通い始めました。日本動植物専門学校、地球環境学部環境保全科で2年間勉強しましたが、山中での自然観察実習の日の夜勤は、正直きついものがありました。
しかし、その中で自然の営みが少しずつ見えてくると、「共存」という言葉の持つ意味が分かってきました。地球上の生き物は、すべて繋がり合っています。ただそれだけです。人は、この繋がり合っていることを決して忘れてはいけないことを学びました。
専門学校卒業後、事業所勤務の私は異例の転勤をしました。高卒でありながら支店を飛ばし本店にしかない環境広報、環境教育、環境行事を企画する部署で仕事をすることになったのです。社員2万人以上、関西圏内にたくさんのお客様がいます。その方たちに自然の出来事を知らせる仕事ができると喜びを感じ、一生懸命働きました。日付が変わってから家に帰ることが多い生活でした。しかしながら、意気込みと現実のギャップが次第に大きくなりました。
私は、純粋に自然のことを伝えたいのに、企業の中では方針という掟があります。大企業の歯車に噛み合ない私の意気込みは、いつしか仕事に追われ薄れていくようでした。また、この時、フィリピンから帰国後すぐに結婚した妻と長男がいましたが、母子家庭状態でもありました。1997年には次男が産まれました。
仕事を終え、いつも子どもたちの寝顔を台所から眺めて、妻から今日の出来事をビール片手に聞いていました。その後、1人になるといつも自分の手を見つめていました。キーボードしか触らない白い手、細くなった指を見つめると、“このままでは、自分が自分でなくなる”と思うようになりました。また、「真の幸せとは」何なのか分からなくなりそうでした。
農家として新たな人生のスタート
私自身が自然相手の仕事をする必要がありました。“その中で感じた自然の出来事を伝え、たくさんの人に自然を届ける仕事とは”と考えた末、その手段が「農業」であることに辿り着きました。
妻へ私の思いを伝えました。2つ返事ではありませんでしたが、私の真ん中にあるものをいつも見てくれているので「えっ…」と驚いた後は了解してくれました。その半年後、会社を辞め、愛媛県の瀬戸内海に浮かぶ大三島に家族で移住しました。
そして、家族一緒の時間を過ごしながら農業を営む「農家」になったのです。
おち・もとゆき 1967年大阪市生まれ。31歳までは大阪の電力会社に勤務。 1992年休職し、青年海外協力隊に参加。先進国の利益のために自然環境が悪化している途上国の生活を知る。1995年復職。余暇で自然環境の専門学校に通い、1997年卒業。ある時から"農業にこそ真の 豊かさを伝える原点がある"と考えるようになり、脱サラして就農することを決意。1998年父親の出身地である瀬戸内海の大三島に家族で移住し就農。現在、約70aで野菜や果樹、稲作栽培、養鶏などで産直販売をしている。また地元生産者らと有機野菜グループ「家庭菜園」を結成し共同出荷を開始。その他、NPO「大三島愛らんど自然倶楽部」や「大三島自然探検隊」なども立ち上げ、EM活用も含めた多彩な環境保全活動を展開。家族は両親と奥様、そして元気な3人の息子さん。